戦隊シリーズ『炎神戦隊ゴーオンジャー』で知られる俳優・古原靖久さん。
彼の半生には、“16歳の母”と“児童養護施設での暮らし”という大きな出来事が刻まれています。
本記事では、公的・一次取材に基づくインタビュー記事を中心に、古原さんが語ってきた「母はどんな人だったのか」「16歳での出産と育児放棄(ネグレクト)の実像」「その後の歩みと現在」までを、時系列で整理して解説します。
古原靖久の母はどんな人?
古原靖久さんのお母様ってどんな人なのでしょうか。
公式発表されている記事がありますのでそこからの情報を中心に確認していきましょう。
まずは、古原さんが公に明かしている“母像”を見ていきます。
キーワードは「16歳での出産」と「若い両親の結婚」です。
古原靖久さんのお母さんは16歳で出産されたそうですが、どのような状況だったのでしょうか。
古原靖久さんは16歳で出産したお母さんに育児放棄(ネグレクト)されていました。
古原さんは語っています。
僕を産んだとき、母は16歳でした。オムツも何日も替えてもらえなかったりして…」
引用:文春オンライン(2024年取材)

お母様に抱き寄せられているすてきな写真です。
この写真は「遊園地に行った時の写真」ということで古原さんご自身の提供だということです。
女優さんみたいな素敵な美人ママ、きっと古原さんにとっては自慢の母親?
また、後に述べる古原靖久さんの施設での暮らしについても、最初のうちはお母様は面会にも何度も来られていたということです。
古原さんのお母さんってどんな人?
どんな環境下にあったにせよ、遊園地に行った写真があったり、記事本文にあるように「誕生日ケーキ」の思い出があったりすると優しいお母さんだったんだなと思います。
16歳出産で育児放棄の真相

16歳で母親となってしまった古原さんのお母様はどんな状況下にあったのでしょうか。
古原さん自身も動画やインタビューで公表しているので育児のこと、経済状況のことなど見ていきましょう。
彼は、母の若年出産後にネグレクト状態が続いたと証言。
幼少期にオムツ替えや食事の世話が十分にされず、数日間の放置があったと語り、これが児童養護施設入所(5歳)につながったとの自己証言で一貫しています。
「16歳の母が育児放棄」過酷な環境で育った古原靖久が母亡き後に知った「事実」
Chantoのインタビュー記事です。
お母さんは16歳、お父さんは5、6歳違いだと思うので20歳そこそこですね。周りの反対を押しきって、かけおち同然で結婚して僕が生まれたらしいです。
引用:Chantoweb
「当時は生活に余裕もなく、昼夜働き詰めの母親のもとで育児が行き届かず、生後間もなく“放置状態”(ネグレクト)に置かれることもありました。」と古原さんは語ります。
古原さん本人も「ネグレクト(育児放棄)」という言葉を使い、「泣き叫んでも誰も来ない夜があった」と明かしています。
若くして母となった彼女の苦悩と、育児の現実が重くのしかかるエピソードです。
また、”古原泰久チャンネル」を配信し、幼少期の「ネグレクト」の現実を明かしています。
動画では、すでにお母さんは亡くなっているとのことですが、どんなに会いたかったか!
今も会いたいでしょうね。
そんな気持ちが伝わってくる動画です。
若い母親がひとりで子育てをするのは並大抵のことではないでしょう。
それでも、みんな一生懸命生きてきたのだと思います。
現在までの経緯

仕方なく育児放棄にも遭った幼少期。
古原靖久さんはこのあと、どのような子ども時代を過ごしてきたのでしょうか。
その経緯を見ていきます。
古原靖久さんは5歳の時についに児童養護施設に入ることになります。
- 児童養護施設に入るまで
- 児童養護施設の生活
- 施設でのお母さんとの別れ
- おじいちゃんの援助の手
児童養護施設に入るまで
古原さんのお母さんは育児に限界を感じ、ついに古原さんが5歳のとき、東京都内の児童養護施設に預けられました。
5歳ぐらいから児童養護施設で育ちました。母とは小5のころから連絡が取れなくなって…」
引用:(CHANTO WEBインタビューより)
児童養護施設の生活
古原靖久さんは、施設の生活の話もしています。
また、3度家出をしました。
でも、施設は唯一の「家族」だったとも話しています。
施設では規律が厳しく、厳しい指導や暴力的な体罰もあったと古原さんは明かしています。
「正座、ビンタ、エアガンを撃たれるなど、いろんな“しつけ”がありました」と語りつつも、「それでも自分にとって“家族”だった」
と振り返っています。
施設内の様子も前章の動画で詳しく語っておられます。
そこはそこで、古原さんなりに成長の一過程を過ごした意味のある場所であったと思います。
施設でのお母さんとの別れ
母親とは小学校高学年の頃に連絡が途絶え、それ以降再会はしていなかったのだそうです。
動画での古原さんのお話によりますと、最初は施設にも面会に来てくれるお母さんでしたが、徐々に回数も減り、高学年になると何か月も会えない日々を過ごしたのことです。
施設を飛び出して阿佐ヶ谷の西友で会ったときが最後のようです。
できるだけお母さんと長くいたかったから喉も乾いてないのにジュースを買ってもらいます。
そのジュースをできるだけ長い時間かけて飲んで粘るのです。
そして、また会えるように次の約束を決めるために、春原さんはおねだりをしたのです。
「ポケモンの福袋買っといてね、約束だよ。」と。
結果的にこれがお母さんとの最後となったのです。
舞台を中心に活躍する俳優の古原靖久さん。
縁あって芸能界入りし俳優として活躍する姿を、お母さんが密かに応援してくれていたのを知ったのは亡くなったあとだったそうです。
第2章の動画ではご本人が今も名前を芸名にしないで「春原靖久」を通してきたのはお母さんに分かるようにしておきたかったからなのだそうです。
おじいちゃんの援助の手
古原靖久さんは過酷な幼少期を過ごしてきたのですが、そんな中での周りのサポートはどれだけ助けになったことでしょう。
特に”おじいちゃん”(父方のおじいちゃん)は、古原さんにとって生きていく上でかけがえのない身内でした。
祖父は、母親が育児で悩んでいたときにも助けてくれ、古原さんの面倒をよく見てくれたといいます。
そのことについて見ていきましょう。
5歳までネグレクトのような過酷な状況で育ちました。それでもどうにか生きられたのは、父方の祖父のおかげだったと話します。
祖父が“ちゃんと靖久のめんどうを見るんだぞ”と母に言っていたのを今でも覚えています。」
引用:(livedoor.comニュースより)
この”おじいちゃん”は物心両面から息子の嫁である靖久さんのお母さんを支え続けました。
(父方の)おじいちゃんは「ちゃんと靖久のめんどうを見るんだぞ」という思いで、お母さんにまとまったお金を渡したと聞きました。
車も買い与えたそうです。
施設入所後も、面会に来てくれたり、上京時の引っ越し費用を援助してくれたそうです。
「祖父がいてくれたから、自分は完全に孤独ではなかった」と語る古原さん。
2019年に祖父が亡くなった際には、「もっと感謝の言葉を伝えたかった」と深く悔やむ気持ちをSNSに綴っています。
施設に入った後も、祖父は面会や生活の支援、上京時の資金援助などを続け、古原さんにとって心の支えとなっていました。
祖父の言葉は、彼の人生において欠かせない支えだったと強調しています。
まとめ
古原靖久さんの語った幼少期の壮絶な環境と同時に周りの人々とのつながりも見てきましたが、いかがでしたか。
16歳の母、施設暮らし、孤独――そのなかで祖父の温もりが、彼の支えとなったのです。
子どもは親を選ぶことはできません。
古原靖久さんは、現在は俳優としてだけでなく、児童養護施設での体験をもとに「子どもの貧困」や「親子関係」について語る機会も増えているそうです。
壮絶な過去を乗り越え、自らの人生を肯定的に生きる姿は、多くの人に希望を与えてくれます。
これからの古原靖久さんの活躍に注目したいと思います。
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