東日本大震災で父を亡くし、母と歩んできた佐々木朗希選手。
シングルマザーとなった佐々木朗希の母・陽子さんは、苦難の中で彼を支え続けました。
親子の絆が育んだ努力と夢が、ついにMLB挑戦へとつながります。
今回は、感動の軌跡と知られざる背景をリサーチしました。
佐々木朗希母の奮闘とは?

出典:bing画像
2011年3月11日、佐々木朗希選手(当時9歳)は、岩手県陸前高田市で東日本大震災に遭遇しました。
- 東日本大震災が奪ったもの
- 母子の再出発
東日本大震災からもう14年もたってしまったのですね。
この震災で、父・功太さんをはじめ、多くの命が奪われました。
東日本大震災が奪ったもの
この震災で佐々木家も家を流され、生活基盤を一気に失ったのです。
同時に祖父母も佐々木少年から奪ってしまいました。
母子の再出発
震災後、シングル母となった佐々木少年の母陽子さんはどのようにして家族4人で新たな一歩を踏み出していったのでしょうか。
その奮闘ぶり、近所の助け合いなどを見て行きましょう。
街も人も奪われた地獄のような陸前高田。
仮設暮らしを余儀なくされ、3人の育ち盛りの子どもたちを抱えた佐々木朗希少年の母、陽子さんはさぞかし心細く辛かったことでしょう。
女性自身の記事は述べています。
「佐々木朗希を育て上げたシングル母の奮闘…震災直後は仮設住宅で涙の日々。」
陽子さんは、佐々木が小学校3年生のときからシングルマザーだ。
東日本大震災で地元の陸前高田も大きな被害を受け、父・功太さん(当時37歳)と祖父母が亡くなったためだ。その後は、大船渡市に移り住み、親族や周囲のサポートも受けながら生活をしてきた。
引用:女性自身
お父さんを亡くしたお母さんは毎日、泣いておられたと言います。
陽子さんは実家のある大船渡市に子どもたちを連れて移り住み、そこで懸命に子どもたちを育てました。
陽子さんは高校時代の佐々木には、体を大きくさせるため、毎日弁当を3つ持たせていたということです。
また、夜8時には就寝させていたという話もあり、子どもたちの健康管理は母親にとって大切な仕事で、長男と三男も野球をやっていたため、一家で1週間でお米10キロを消費したと言われます。
ネットなど各種情報には佐々木朗希さんのお母さんは震災前から続けていた保険会社の営業の仕事をしながら一家を支えていたとあります。
家事と育児と自分の仕事のほかに息子たちの野球の練習に付き合うと言う責任ある仕事もあります。
しかし、一家に好きなことをもっている子どもたちを応援するのは親にとって喜びでもあります。
それが心の支えになって今に通じているのかもしれません。
震災乗り越えMLBまでの軌跡をリサーチ!

佐々木朗希投手と家族を支える母の陽子さんはどのように震災を乗り越え、MLBまで上り詰めたのでしょうか。
その軌跡をたどってみましょう。
- 東日本大震災を乗り越えて
- MLBまでの軌跡
東日本大震災を乗り越えて
突然母子家庭となった佐々木家はどのようにこの震災を乗り越えていったのでしょうか。
佐々木朗希さんの支えとなったのはやはり野球でした。
幼少期、野球の面白さを教えてくれたお父さん。
その後小学生になって地元少年野球チームに進んで野球に夢中になりました。
震災後も野球に打ち込むことで母子ともに前進することができたのです。
「毎日、野球があって、夢中になって練習してきた。野球に助けられたところもある」
「野球しているときが一番楽しかった。夢中になれる時間というのがあったおかげで、大変だったとき、つらいときも頑張れた。野球をやっていて良かったなと思う」。
引用:スポニチ
父功太さんは町の中心人物でいつも周りを盛り上げる人だったそうです。
父のDNAをしっかり受け継ぎ、野球一筋、順調にプロへの階段に上がりました。
「後悔しないよう一生懸命生きてきた!」
これから大人としてやるべきことは、街を内側から照らした父と同じだ。世界にも名を響かせたその速球で、外側から故郷を1つに束ねる。「地元に恩返しできるように精いっぱいプレーしていきたい」と誓い、上京した。9回目の3・11。夢だったプロ野球選手として、思いを込めて北の空へ目を閉じる。
引用:日刊スポーツ
MLBまでの軌跡

笹木朗希選手は憧れのプロ野球選手となりました。
彼はどのようにしてMLBへと上り詰めていったのでしょうか。
大船渡高校時代から「令和の怪物」という異名を持つほどにすばらしい成績を出し続けていました。
ロッテのドラフト1位・佐々木朗希投手(18)=大船渡高=が9日、「母の日」を前に、女手一つで育ててくれた母・陽子さん(46)への思いを語った。
お母さん、ありがとう-。少年時代から憧れだったプロ野球選手となり、初めて迎えた「母の日」に佐々木朗希は、陽子さんに伝えたい言葉があった。
「今、こうやってプロ野球で野球ができているのは母のおかげだと思っています。本当に感謝をしています。ありがとう」
引用:サンスポ
2022年4月11日のYahooニュースです。
MLBでも相当に希有だった佐々木朗希の完全試合!2度達成なら日米で唯一無二の存在に
まだ20歳という若さで、完全に相手打者を圧倒した投球内容に、すでに完全試合の再現を期待する声が高まっている。
引用:Yahoo ニュース

佐々木朗希投手、世界の舞台に立つ!!
侍ジャパンのロッテ・佐々木朗希投手(21)が運命の3・11にWBCデビューを果たす。11日のチェコ戦で先発予定の右腕は、12年前の2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災で父・功太さん(享年37)と祖父母を亡くした。当時9歳だった少年は計り知れない悲しみを乗り越えながら、12年の時を経て、同じ日に世界の舞台に立つ。
引用:スポーツ報知
ついにアメリカに渡る!
MLB ドジャースに入団が決定しました。
背番号は11番。
ついに待望のメジャー初勝利!
外国人として、それだけでもハンディーがある中でなかなか自己のペースがつかめず周りもはらはらしましたがやりましたね。
天国のお父さん、おじいちゃん・おばあちゃんにも見せたいなと思いました。
【アトランタ(米ジョージア州)3日(日本時間4日)=斎藤庸裕】ドジャース佐々木朗希投手(23)が、待望のメジャー初勝利を飾った。
引用:日刊スポーツ
どこにいても心は故郷とつながっていたい。
米国で迎える「3月11日」を「自分にとって特別な日であることに変わりはありません」
東日本大震災:震災で父と祖父母失った佐々木朗希「3月11日は特別な日」「故郷とつながっていたい」 : 読売新聞震災当時は小学3年生で、父と祖父母を失った。米国で迎える「3月11日」を「自分にとって特別な日であることに変わりはありません」
引用:読売新聞
まとめ
佐々木朗希、現MLBドジャース投手が震災を乗り越えてがんばっている様子をお伝えしました。
野球の楽しさを最初に教えてくれた父親が当時37歳という若さで不慮の死を遂げました。
そんな中で母、陽子さんを中心に家族や周りの人々といっしょになって乗り越えた大きな人生の波。
「令和の怪物」の異名を持つ佐々木朗希投手の快挙を見てきました。
やっとのことで初勝利を得て本人はもちろん、世界中のMLB,野球ファンをほっとさせました。
天国のおとうさん、おじいちゃん、おばあちゃんに届くといいです。
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